「転機ですか。今この瞬間だと思います」
インタビューで「これまでで一番大きな転機は何でしたか」と聞かれた経営者の多くは、過去のどこかを想起します。創業の日、倒れかけた月、大きな受注が決まった朝。
吉沢恒明さんは、過去を想起しませんでした。今、と言いました。
取材の2週間ほど前、吉沢さんは4年あまり役員を務めた会社の取締役を退任しています。決まったのが8月26日ごろ、退任日が8月末。ほとんど猶予のない決定でした。
普通なら、暗い話になります。実際、本人も「どうしよう、という感情もありました」と認めます。ただ、その直後に出てきた言葉は、こうでした。
「それ以上に、頭の中が『わーっ』となる感覚のほうが強くて。よりやる気になったし、解放された感覚もありました」
株式会社BSP。吉沢さんが2023年に立ち上げた、自分の会社です。年商3億円から50億円ほどの中小企業に向けて、経営コンサルティングと営業支援を行っています。
慶應義塾大学文学部を出て、新卒で入ったのは船井総合研究所。国内では最大規模の経営コンサルティング会社です。そこに10年9ヶ月。管理職まで務め、業種特化の会員制勉強会——「研究会」をゼロから2つ立ち上げました。
そのあと、プルデンシャル生命保険へ。1年で辞めています。貯金が尽きかけました。
そこから出版社の代表取締役。その次が、創業まもないポスティング会社の取締役。ポスティングという、DXの潮流から見れば完全にアゲンストな、紙のチラシを1軒1軒ポストへ投函する事業です。
コンサル、金融、出版、広告。まったく違う4つの業界を渡って、いま5つ目として、自分の会社に戻ってきた。
一見、迷走に見える経歴です。ご本人も、当時のnoteにこう書いています。
「私は、人生を50年先から逆算して人生計画を…とかいうのが、昔から苦手です。どう考えても、そんな先の未来なんて想像してもしっくりこない。行き当たりばったりと言われればそれまで」
ただ、話を聞いていくと、この人が節目ごとに選んできたものは、かなり一貫しています。
「安定」ではなく「自分がまだ知らない世界」。そして、「自由に挑戦できる環境」。
学生時代の趣味が「バイト」だった話から、カウンター11席のラーメン屋の経営理念を15年経った今も暗唱できる話、1,000万円以上を使い込んで貯金が尽きかけた話、そして「犯罪以外なら何でもやっていい」と自分に許可を出した先月の話まで。
遠回りの理由を、順番に聞きました。
「転機ですか。今この瞬間だと思います」
1人から始まる、自分の箱
Qまず、いま株式会社BSPでどのような事業をされているのでしょうか?
経営コンサルティングと、営業代行・営業支援です。
お客様は中小企業で、規模でいうと年商3億円から50億円くらいのゾーンが中心になります。この規模の会社が一番、経営者の頭の中と現場の距離が近いので、打ち手がそのまま数字に出るんですよ。
QBSPという会社は、どういう経緯で立ち上げられたのですか?
もともと個人事業主的に経営コンサルをやっていたんです。それを、当時役員をやっていた会社ときちんと分けようと思って。自分の箱として設けたのがBSPです。
なので、そこから自分で営業していく、という動き方はまったくしていませんでした。ご相談をいただいて、対応できるものにお応えする。その形でやってきました。
株式会社BSPの設立は2023年12月。会社としての規模は、決して大きくありません。従業員数は0人。
そこに「経営コンサルティング」という言葉が並ぶと、多くの方はこう思うはずです。コンサルタントが独立して、一人で看板を出した会社なのだろう、と。
半分は当たっていて、半分は違います。
吉沢さんがBSPを設けた2023年当時、この人の本業は別にありました。創業まもないポスティング会社の取締役です。BSPは、その傍らで受けていた個人の相談業務を、法人という器に移しただけのものでした。営業もしていない。ホームページもない。
つまりBSPは、長いあいだ「動いていない会社」でした。
その会社が、2026年9月のいま、吉沢さんの主戦場になっています。
Qいまは、BSPがメインになっているのですね?
そうですね。2026年8月いっぱいで、BE Messengerの役員は退任しました。なので今はBSPがメインです。
ここが、この取材の起点になります。詳しくはSECTION 10でお話しいただきますが、先に一つだけ補助線を引いておきます。
吉沢さんは、追い出されたわけではありません。自分から役員報酬をゼロにし、そのうえで席を降りた。その判断の理由と、そのあとに湧いてきた感情が、この記事の中心です。
「何でもできる」は「何もできない」
QBSPならではの強みは、どこにあるとお考えでしょうか?
私はこれまで、コンサル、金融、出版、広告と業界を移ってきました。それぞれの業界の当たり前を、一応いくつか知っている。
A業界では当たり前にやられていることが、B業界では真新しい。それだけで、いきなりブルーオーシャンになることって、本当によくあるんです。
新規事業、営業・集客、組織、財務。船井総研時代にひと通り見てきたので、「この会社にこの打ち手を入れたら何が起きるか」は、業種を越えて考えられると思っています。
この「掛け算」の話を、吉沢さんはBE Messengerの取締役時代のnoteにもっと具体的に書いています。ポスティング業界で自分が何を武器にしているのか、という文脈です。
「私自身は大した能力の持ち主ではありませんが、業界で唯一無二と言える武器があります。それは経営コンサルの経験」
「国内にポスティング会社は数百あると言われていますが、経営コンサル×ポスティングという経歴の持ち主は、おそらく他にいないのではないかと。つまり、業界に無い"引き出し"を持っていることが強みです」
そして、その引き出しの増やし方についても、はっきりした考え方を持っています。
「基本的に、今や全くの『0』から生まれるビジネスモデルなんて無い。『新しい』ビジネスモデルのつくり方は2つ。①AにBを掛け合わせて新しいCにする ②Aに付加価値をつけてA'にする」
一方で、「何でもできます」と名乗ることには、かなり手厳しい人でもあります。
Q経営者の集まる場に、よく出られていたと伺いました。そこで「もっと話を聞きたい」と思う会社と、そうでない会社の差はどこに出ますか?
残念ながら、話を聞いてみたいと思う会社さんに出会えるのは、10社に1社いれば良いほうだという肌感覚です。
理由は3つに分かれます。自社にニーズがない、こちらがベネフィットを提供できそうにない、そして——結局何屋さんなのか分からない。
前の2つは仕方ないんです。でも3つ目は、お互いにとって、ものすごくもったいない。
「『なんでもできるからなんでも相談して』は、『特に目立った特徴や強みは何もありません』に聞こえてしまうんですよね」
「だったら『私は自分のツイッターで毎月100万インプレッション作って、コストゼロ円でエンジニア採用10名できてるよ! やりたい人いる?』くらいシンプルに尖ってくれた方がよっぽど良い。寧ろめっちゃ興味持ちます」
結論は、シンプルです。
「やっぱり、一点突破・全面展開じゃないですかね。自戒を込めて」
経営コンサルタントが言う「強み」は、しばしば抽象的になります。この人の場合、それが「自分は何屋なのか」を一行で言い切れているか、という極めて実務的な水準に降りてきているのが特徴です。
なにしろ、その判断を年間で相当な回数、自分自身が"される側"としてくぐってきた人です。BE Messenger取締役時代には、経営者交流会や研修に月10件ほど顔を出し、その費用に年間1,000万円近くを投じていた、と書き残しています。
学生時代の趣味は、「バイト」でした
Q若い頃は、どんな学生だったのでしょうか?
高校から大学にかけて、ずっと飲食店でアルバイトをしていました。ラーメン屋、ホルモン屋。
接客業がめちゃくちゃ好きだったんです。接客も調理も、仕事終わりに先輩に連れて行ってもらった遊びも含めて、当時自分の知らない色んな世界を拡げてくれた経験でした。それはもう、学校の友達と遊ぶのなんかより何倍も楽しく、熱中したものです
先輩に独立していく人が多い環境だったので、自分もいつか独立したいな、とは思っていました。
当時の趣味はほぼ「バイト」でした。
比較の基準が「割の良さ」でも「経歴としての見栄え」でもなく、自分がまだ知らない世界かどうかにある。学生時代のアルバイト選びから、40代でのキャリア選択まで、この基準はほとんど変わっていません。
Qいずれ独立したい、という気持ちは学生のうちからあったのですね?
ありました。ただ、何も世間を知らない学生ですから、大学を出てどうしようかと悩んでいて。
「独立しちゃえばいいじゃん」と言ってくれる先輩もいたんです。でも、お店を切り盛りするとか、商売をするということを、自分は何も知らない。
だからまずは修行のつもりで、就職しようかなと考えていました。
11席で月商700万円の店の、朝礼
Qそのアルバイト先が、進路にも影響したそうですね?
大学時代のラーメン屋が、すごく教育熱心なお店だったんです。
バイトの子にも勉強会をやってくれていました。内容は心理学とか。ベースになっていたのがアチーブメントさんの研修で、社長・副社長がプロスピーカーの資格を持っていたりしました。
私は社長と1on1もさせてもらっていて。そこで教わった「選択理論心理学」は、いまでも自分の行動や判断に紐づいていると思います。
駅から徒歩5分ほど、カウンター11席の小さめな店でしたが、最高月商で700万ほど売る、ちょっとした繁盛店でした(雑誌の取材なんかも何回かある店でした)。
実は私、このラーメン屋さんの経営理念を、今でも暗唱できるくらい覚えているのです。そのラーメン屋で働いてたのは、もう15年くらい前のこと。しかも、私は只のバイトの一人でした。それが今でも経営理念を一字一句覚えているって、すごくないですか? これは『私の記憶力が』ではなく、それだけ浸透させた会社や教育体制がすごいのだと思っています。
種明かしは、朝礼です。昼の営業前と夜の営業前、必ずシフトメンバー全員で10分ほどの朝礼を行い、理念と行動指針を全員で大声で暗唱する。そのうえで一人ずつ、これから始まる営業で自分は何を心がけるか、「何」のNo.1になるかを発表する。
事実、たかが一バイトだった私も、営業中その『指針』が頭をよぎって思考・行動変化するような体験が多々ありました。
経営理念というものを、額縁の中の言葉としてではなく、現場の人間の行動を実際に変える装置として体験した。18歳か19歳のときに、カウンター11席の店で。
いま中小企業の組織づくりを支援している吉沢さんの原体験が、そこにあります。
もっとも、本人はそれを「だから理念経営は絶対に正しい」とは言い切りません。
「まだ自分の中で、本当の意味で何かを『達成した』経験がないから。『だから理念経営は絶対に正しいんだ!』と力強く言い切れるにはまだ至ってないのが本音なのです。だから『どちらかというと』賛成 程度です」
Q就職先として船井総研を選ばれたのは、どうしてだったのでしょうか?
そのラーメン屋の社長におすすめしてもらったんです。
中小企業の社長と仕事をして、経営について学んでいくのが良いんじゃないか、と。
個人的にピンときてしまって、他は一切考えませんでした。周りが信託銀行や広告代理店を目指していく中で、自分だけ船井総研を受けて、入社しました。
10年9ヶ月、独立しなかった
Q船井総研では、どんなお仕事をされていたのですか?
基本は業績アップの支援です。
あとは「研究会」という、業種に特化した会員制の勉強会があるんですが、それをゼロベースから立ち上げるのを2つやりました。
どうやってコミュニティをつくって活性化させていくか。そこからどうアップセルの導線をつくっていくか。そこをずっと考えていました。
この一行は、さらりと話されましたが、この人のキャリアを理解するうえで重要です。
のちに吉沢さんは、経営者向けの会員制コミュニティを立ち上げることになります。その原型は、独立後のひらめきではなく、20代のうちに会社の中で2回やっていた仕事だった、ということになります。
Q在籍は10年9ヶ月。途中で独立しようとは思われませんでしたか?
思わなかったですね。
飲食店のお客様も多くて、飲食業の人たちと話ができるのが楽しかったんです。業界自体も素晴らしいと思っていました。
ただ、やればやるほど、飲食業の経営ほど難しいものはないんじゃないか、と思うようになって。
ノリで「いっちゃえ〜」でやってしまえば、どうにかなるのかもしれない。でも、生半可には行けないな、と。
Q独立そのものについては、どう考えていらしたのですか?
結局、独立しても自分がやってきていることはコンサル業でしかないんですよ。
コンサル業で独立しても先細りしてしまう。それ以外の脳がない。
どこかでチャレンジしたいという気持ちがゼロになったわけではなかったんですが。
この「コンサル業で独立しても先細りしてしまう」という一行は、今のBSPを理解するうえでも効いてきます。
多くのコンサルタントは、独立の際に「自分の専門領域を看板にする」道を選びます。吉沢さんはそれを、20代のうちにいちど否定している。そして実際、この人が最初に会社を辞めて向かった先は、独立ではなく転職でした。
しかも、コンサルティングではない業界へ。
「そんなつもりはない」と思っていた自分が、ボロクソに言われた
Q船井総研のあと、プルデンシャル生命に移られています。この1年は、ご自身にとってどんな時間でしたか?
一番大きかったのは、外に出てみて初めて自分が見えたことです。
船井総研に10年いて、その世界しか知らなかった。中間管理職で、一定は安定していて。簡単に言えば、チヤホヤされやすい立場だったと思うんです。
偉そうになっていました。
自分ではそんなつもりはない、と思っていたんですよ。でも、いざ外に出てみたら、話し方とか言葉尻とか、ボロクソに言われました。
無駄に凝り固まったものをぶち壊した感覚がありました。メタ認知ができていなかったな、という気づきです。
Q営業のスタイルも変わりましたか?
それまでToB営業しかやってこなかったので、ToC営業に初めて触れました。
営業という現場が、いかに人間の感情に左右されていくか。それを肌で感じました。
すごく神経を使うようになりましたね。こういうアンテナの張り方は、それまでの自分にはありませんでした。
あとは、税や財務の知見が一気に増えました。
40歳近い年齢での転職で、10年の実績を持ち込みながら、そのほとんどが通用しない場所に立つ。しかも、通用しなかったものの中に「自分の話し方」が含まれていた。
これは、経歴の上では最も短く、最も分かりにくい1年です。プロフィールの上では、たった1行しか占めません。
けれど吉沢さんは、この1年で得たものを3つ、はっきり数え上げました。メタ認知。人の感情に対するアンテナ。そして税・財務の知識。
いま経営者の相談を受ける仕事をしている人が、その3つを持っているかどうかは、決して小さな違いではありません。
1,000万円以上を使い込み、貯金が尽きかけた
Qこれまでで一番苦しかった時期は、いつでしたか?
プルデンシャルを辞めるときですね。
プルデンシャルは、最初の2年間が研修期間なんです。稼いでも2年間は給与の天井が決まっていて、2年後にドバッと入ってくる仕組みになっている。
その途中で辞めることになったので、1,000万円以上を使い込んで、貯金も尽きかけました。
子どもが2人いましたから、かなり大変でした。
Qその状況を、どう乗り越えられたのですか?
真面目に転職活動をしました。
独立へのアイデアも、度胸も、資金もなかったので。
そこから知人を介して、雇われ社長のご縁をいただきました。結果として1年弱くらいでしたが。
「独立したい」と学生時代から思い続け、国内最大級のコンサルティング会社で10年9ヶ月を過ごし、管理職まで務めた人が、40歳前後で、貯金を使い果たしながら、転職サイトに向かっている。
そして本人は、そのときの自分を美化しません。独立へのアイデアも度胸も資金もなかった、と言い切ります。
のちにご本人が書いた文章に、起業の動機についての一節があります。
「起業のきっかけの一番は家族のためです。なんとか収入を増やす必要がありました」
理念でも、ビジョンでもない。家族のため。
「本を出しませんか」が、「一緒にやりませんか」に変わった
Q出版社の代表を務められたあと、ポスティングの会社に入られています。どんな出会いだったのでしょうか?
出版社の営業活動のために、いろいろな交流会に行っていたんです。
そこで、BE Messengerの代表と会いました。
最初は営業のつもりで話していたんですよ。そうしたら「今の会社を辞めるんだ、独立するんだ」と言われて。
話しているうちに、この人と一緒に仕事をしたい、と思うようになりました。
Q営業から、提案が変わったのですね?
自分自身、出版社の仕事を長くやるつもりもありませんでしたし。
「本を出版しましょうか」という営業から、「一緒にこういう事業をやりませんか」という提案に切り替えました。
代表はポスティング事業をやるつもりで創業して、私は別の事業をやろうとしていたんです。
ただ、やってみたらポスティング事業の方が明らかに伸びがよかったので、そちらに集約していきました。
株式会社BE Messengerの創業は2022年4月。吉沢さんは翌5月に取締役として参画しています。
ポスティングという事業を、吉沢さんがどう見ていたか。当時のnoteに、正直すぎる一節があります。
「未だに知人などからも『なんでポスティングなの?』と聞かれることがあります。紙のチラシという、完全アナログ媒体。DX化が推進される潮流の中で、完全にアゲンスト。斜陽産業。疑問に思うのは至極ふつうのことかなと。ぶっちゃけ私もそう思います。笑」
では、なぜやったのか。
「敢えて言うならば、私が今この市場で、この会社で戦うことに特別な感情があるかと言ったら、別にそんなことはありません。『ポスティング』に深い思い入れがある訳でもありません」
「そして何より自由に『挑戦』できる環境があるから。これが一番大きいです」
「ほぼ創業期に、縁あって役員という形で参画させて頂いて以来、約1年間、代表からは1つも指示らしい指示をもらったことがありません。(あっても、風邪ひいた時に『代役お願いできる?』と頼まれたくらい笑)それはもう完全に、自由奔放にやらせてもらえました」
事業内容ではなく、環境で選んでいる。
学生時代に「自分の知らない世界を拡げてくれる」という理由でアルバイトを選んでいた人が、40歳を過ぎて、同じ基準で会社を選んでいます。
Q実際に、営業の現場にも立たれていたのですよね?
私はこれまで、コンサル、金融、出版の業界で営業をしてきました。BE Messengerでの動きも、8割方は営業です。
業界未経験、ズブの素人からのスタートでしたが、それでも約半年間で50〜60件ほど新規受注ができました。
もちろん、協力いただいている社内の方やパートナーさんのおかげです。ただ、自分の営業スキルが特段高いわけではなくて、シンプルにニーズが顕在化していたんだと思います。
交流会は、「出会った後」を設計する
Q船井総研で立ち上げられた「研究会」の経験は、その後どうつながっていきましたか?
BE Messengerでの仕事のひとつが、経営者向けの交流会事業の立ち上げでした。
もともと、そちらの会社で中期的に交流会事業を立ち上げる計画があったんです。私が自分の資本で起業しようとしていたときに、「それならそっちの会社で交流会事業をやるのはどうか」と提案をいただいて。自身の事業として立ち上げていく運びになりました。
この交流会が「ギバーズ倶楽部」です。発足は2024年2月7日。運営組織としてはBE Messengerが主体で、代表者は同社代表の湯本厚志さんとなっています。
会そのものの設計には、吉沢さんの考え方がはっきり出ています。
Qどういう設計の会なのでしょうか?
特徴は3つです。
まず参加条件を絞っていること。年商1億円以上の法人限定で、一定以上の層の経営者、決裁権者だけが参加されている会です。
2つめが、会員同士のマッチング促進に重点を置いた例会コンテンツと、マッチングコーディネーターの設置。
3つめが、オフライン会では毎回、上場企業・有名企業の現役社長をゲストにお招きしていることです。
異業種交流会の多くは、「出会うところ」までを商品にしています。名刺を100枚交換して、そのあと何も起きない、というのは誰もが一度は経験することです。
この会が置いているのは、そこではありません。参加条件で相手を絞り、マッチング役を人として置く。つまり、出会いそのものではなく、「出会った後」のほうを設計している。
コミュニティをつくって活性化させ、そこから次の導線をどうつくるか——船井総研の研究会で2回やっていた仕事が、そのまま形を変えて出てきています。
役員報酬をゼロにして、席を降りた
Qこれまでで、最も大きな転機はいつでしたか?
今この瞬間だと思います。
役員を退任して、いまシャカリキに動いています。これから、ポロポロと案件化の見込みも出てきているところです。
Q退任は、どういう経緯で決まったのでしょうか?
大口のお客様が事業から撤退されて、売上のインパクトが大きかったんです。
経費のコントロールもいろいろ行いましたが、固定費にメスを入れる必要が出てきました。ただ、社員を減らすことはしたくなかった。
結果として、役員報酬をごそっとなくしました。
決まったのが8月26日とかで、8月末付での退任です。
短い答えです。感情の説明が、ほとんどありません。
順番を整理すると、こうなります。売上が大きく落ちた。固定費を削らなければならない。社員は減らしたくない。だから、自分の報酬をゼロにした。そして、席を降りた。
一般に、この種の話は「苦渋の決断」として語られます。吉沢さんは、そういう語り方をしませんでした。
Qそのとき、価値観として変わったことはありますか?
より楽しくなりました。
どうしよう、という感情もありましたが、それ以上に頭の中が「わーっ」となる感覚のほうが強くて。よりやる気になりました。解放された感覚もあります。
言い訳する選択肢もないし、今さら転職活動なんてやりたくもない。
だったら自分でどうにかしよう、と。犯罪以外なら何でもやっていい、というくらいの気持ちです。
BE Messengerでの役割があったこともあって、制限していた部分があったんです。それを、これからは動かしていける。
エンジンが回り始めた感じがしています。
4年あまり、他人の会社の役員として、自由にやらせてもらってきた。ご本人の言葉を借りれば「完全に、自由奔放にやらせてもらえた」。それでも、役員という立場である以上、自分の中で制限をかけていた部分があった。
それが外れた。
収入は落ちています。肩書きも減っています。客観的に見れば、悪い知らせしか並んでいません。
にもかかわらず、本人の主観では「より楽しくなった」。
この感覚を、若い頃から持っていた人ではありません。むしろ、逆です。
「私は、人生を50年先から逆算して人生計画を…とかいうのが、昔から苦手です」
「もちろん、先のことを全く考えないわけではありません。だけど、完全に見え切らなくたって、その先に何があるのか分からなくたって、やってみたい、ていう衝動があるんだから、その直感に従っても良いよね? くらいのノリ。大事にしたいものさえ見失わなければ」
そして、こう続けます。
「一緒に暮らす家族からすれば、もっと確からしいものを提示してほしい所かもしれませんが。まぁ、そこはなんとかしますよ。笑」
3年前に書かれた文章です。
挫折して、折れて、それでも諦めなければ勝ち
Qこれから社会に出る若い方に、最も伝えたいことは何でしょうか?
私自身、社会人になってから挫折を経験してきているタイプなんです。
学生までは、妙な無敵感があったんですけどね。
だから伝えたいのは、挫折を味わっても、折れてもいい、ということです。私自身、ダラダラしてしまう時期もありました。
最終的には、諦めなければ勝ちだと思っています。
Q「折れてもいい」という言葉が印象的です。その先に何があるのでしょうか?
経験をいっぱい、どんどんしてほしいんです。
パンクすることも良いことだと思っていて。パンクして挫折を迎えたときに、そこで何をするかが、次につながっていく。
がむしゃらにやって、弾けて、再生する。それが良いんじゃないかと思います。
この言葉の重さは、本人の経歴を並べると分かります。
10年9ヶ月勤めた会社を出て、次の会社を1年で辞め、貯金を使い果たし、真面目に転職活動をして、雇われ社長を1年弱で終え、創業期の会社に飛び込み、4年で役員の席を降りた。
がむしゃらにやって、弾けて、再生する。
言われてみれば、この人はそれを3回か4回、繰り返しています。
同じ趣旨のことを、ずっと前にも書いていました。
「誰か大変そうだったら手伝ってみる。自分なりに情報収集して、アポを取ってみる。人と会ってみる。どれだけ役に立つか、どれだけ成績に結び付くかも分からない。そんな小さなことだったとしても、何か行動を起こしてみないことには、チャンスは掴めない」
そしてもう一つ、ご本人が「一生物の言葉」と呼んでいるものがあります。船井総研時代の上司から受け取った言葉です。
「以前の会社で、すごく、すごくお世話になった上司の言葉。『痛い時ほど突っ込め』」
「クレームをもらった時、ミスをして人に迷惑をかけてしまった時。逃げたい、隠したい、極力連絡したくない。開いたメールも、返すことなくそっと閉じてしまったり。そんな経験はないでしょうか? 私は今でもあります」
「でも、その度にこの言葉が頭にフラッシュバックしてきます。その度にぐっとこらえて、もう一度向き合う姿勢が取れた時、行動できた時、それができなかった当時の自分よりは、ちょっとは強くなれたかなとか思ったりします」
「一瞬逃げたり背けたりしても良いんじゃないかなと。でもそこでもう一回踏ん張り返せるか」
折れてもいい。でも、もう一回踏ん張り返せるか。
20年近い間隔をあけて、同じことを言っています。
EDITOR'S NOTE / 編集後記
インタビューの最後、吉沢さんはこれからの案件獲得について、淡々と話していました。声を張るわけでもなく、悲壮感があるわけでもなく。
この人の経歴には、分かりやすい成功の物語がありません。看板になる大きな数字を、自分のものとして持っているわけでもない。国内最大級のコンサルティング会社の看板も、外資系生命保険の看板も、出版社の社長の肩書きも、ポスティング会社の取締役という立場も、いまは全部、手元にありません。
残っているのは、4つの業界を渡ってきた引き出しと、BSPという自分の箱です。
そして、「今この瞬間が転機です」と言い切る本人がいます。
「言い訳する選択肢もないし、今更転職活動なんてやりたくもないし。自分でどうにかしよう」
エンジンが回り始めた、というのは、そういう意味でした。
埼玉県大宮市(現・さいたま市)出身。2010年3月、慶應義塾大学文学部卒業。同年4月、株式会社船井総合研究所に入社し、2020年12月まで10年9ヶ月在籍。中小企業の業績向上支援に携わるとともに、業種特化型の会員制勉強会「研究会」をゼロから2つ立ち上げ、管理職を務める。
2021年1月、プルデンシャル生命保険株式会社へ。2022年1月、サンライズパブリッシング株式会社の代表取締役に就任。2022年5月、創業まもない株式会社BE Messenger(ポスティング事業)に取締役として参画し、営業と新規事業開発を担当。2024年2月には経営者交流会「ギバーズ倶楽部」の立ち上げを手がけた。2026年8月末をもって同社取締役を退任。
2023年12月に設立した株式会社BSPでは、年商3億〜50億円規模の中小企業に対し、経営コンサルティングと営業支援を提供している。
会社所在地:東京都港区西麻布
note:note.com/be_messenger2022(BE Messenger在籍時の連載)
